これからの臨死体験 ⑼

それは、『臨死体験をする人がこれから増えてくる』ということです。しかも2種類にわたって増えていくでしょう。そして実際にそれは増えてきています。その実例を見逃さないためには、私の母と兄とアニータの臨死体験の共通点と違いを振り返ってみる必要があります。

まず一つ目の共通点は、母とアニータの視点です。2人は臨死中に自分とまわりの人を眺めています。身内、看護師、医師の動きを見ています。
二つ目の共通点は、2人の思いです。私はどうしたのかしら?私は愛する人を残しては逝けない。彼女たちは、不用意の死に納得をしていません。
三つ目の共通点は、生還したあと、2人とも肉体的にさほど苦しみませんでした。なぜなのでしょう。

私の母は結核の末期、アニータは癌のステージ4のBつまり末期です。2人とも長期の闘病生活でほとんどの体力を消耗した上で死んでいきました。生き返った時の2人は、残り少ない体力をフルに使って心臓を動かし横隔膜を上下させ、肺から二酸化炭素を出したあと酸素を入れました。つまり2人には、呼吸する以外は苦しむ体力も残っていなかったということです。

一方、私の兄の臨死体験は2人と大きく違っています。まず、視点です。兄は光の方を見ています。倒れている自分の肉体を見ていません。それどころか、私やバンドのメンバー、スタッフの方を見ていないのです。
では、二つ目の兄の思いはというと、光に包まれた感覚だけです。至福の時を味わっていました。
三つ目の、生還後の肉体的なコンディションになると、兄は苦しみの極致を体験しました。5時間にわたって吐血を繰り返し、文字どおり身もだえしたのです。

この大きな違いを一つひとつチェックしていくと、あることがわかってきました。臨死体験という場面の広大さです。臨死状態の世界の広さとでも表現したらいいのでしょうか。その人その人で、見え方が違うということです。もちろん感じ方も。整理します。

私の母とアニータは闘病生活を送りながらも病状が悪化していき、死を考えないわけにはいかなくなっていった。臨死の時、2人とも死を自覚した。でも、このまま死んで行っていいのかと自問し、それは困るので戻ることにした。
一方、兄は死に気づかなかった。だからなのか兄は光に浸り光を味わい、そこがどこかは問題にならなかった。私と仲間に引き戻されて、あとであれは死だったのだと自覚した。
兄は死に始める直前まで闘病生活をしていない。ということは、音響機器の試作に4日連続徹夜したとはいえ、闘病に比べたら体力は存分にあった。体力とは、生命力の大事な材料こと。その材料は燃料にもなるので、兄は生還したあと燃料をたっぷり使って痛みを感じ苦しんだ。

ここで、アニータと私の母と兄の最大の共通点を確認しておきます。それは、3人とも1度死んで生き返ったことです。そしてもっとも異なる点は、アニータは死んだ時この世の仕組みがわかり、人はなぜ病気になるのかも理解しました。そしてそれを本にして発表したのです。一方、母と兄の場合は、臨死体験をひとつの不思議な思い出として人生を生きました。

この違いは見逃せません。ここで、以前に私が書いた『100匹目の猿』(2016年12月26日付け)を思い出して欲しいのです。その上で、臨死体験は発火点まで来たことを語ります。

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