これからの臨死体験 ⑺

下半身だけが、抜けるようにだるくなってきたのです。これはどういうことなんだ?私はしゃがんで兄の左手を握っているから、足が疲れるはずがない。でも、すぐにそれは下腹部の重みだとわかりました。腹を全方向から押されるような、腹そのものが熱を出してたぎるような感覚。そして感覚は痛みに変わり、しかも強烈になってきたのです。
「わるいッ、代わってくれ」
中元寺に代わってもらい、私はトイレに向かいました。

W病院のトイレは和式でした。尾籠な話になりますが、強い痛みの私はそこで用を足しました。そして何となく便器を見ると、それは排せつ物というより大量の下血でした。それを見て私は声を発しました。
「よおし!」
私にはわかったのです。来たぞ。やっと来たぞ。兄じゃなくて俺に来た。
先ほどまでの私の痛みは、まったく消えています。それどころか、すっきりした気分です。私は急いで病室にもどっていきました。

ドアを開けて兄を見ると、寝息を立てて寝ています。一晩中ずっと立ちっぱなしだった坂井も、ベッドわきにすわっています。私と目が合った坂井は言いました。
「ついさっき、すうっと眠り始めました」
私はうなづきました。高橋は少しホッとしたのか、疲れを浮かべた顔で目を閉じていました。母は兄の寝顔を見続けています。まだ兄の左手を握ってくれている中元寺の肩をトントンとやって私は言いました。
「サンキュー。代わろう」

再び兄の左手を握った私は、自分は興奮しているとばっかり思っていたのに正反対に静かなのを知りました。安心というのか、充実というのか、穏やかというのか。おかげで私は4人に、トイレでの一部始終を静かに語ることができました。母も坂井も高橋も中元寺も、誰ひとりとしていぶかしそうな顔をしません。それどころか、兄が吐血しなくなったタイミングと私のトイレの一件がぴったり合ったことに感心していました。

私たちから連絡を受けた医師がほどなくしてやって来ました。静かに寝入っている兄をひと通り診た医師は、けげんなそうな顔をしながら自分自身につぶやくように言いました。
「安定してるので、このまま様子をみましょう」
母の会釈にこたえながら医師は病室を出で行きました。

その日の昼前、兄は目を覚ますとその疲れた顔で病室内を見まわしました。そして私たち一人ひとりを見たあと、こう言ったのです。
「ここはどこ?」
この定番のコメントに、つんのめるやら呆れるやらホッとするやらで、みんな苦笑したのを憶えています。

すぐに退院を主張する兄に医師は当惑しながらも、ある提案をしてきました。とにかく、このまま帰すわけにはいかない。なぜなら、深夜の状態からして今の状況はありえないし体力の消耗も激しい。よって、精密検査をしたい。もちろん、こちらからの提案だからその間の入院費はいらない。それに対して余裕の私たちは、医師を気の毒に思い彼の願いをきき入れました。

結果、たび重なる吐血による貧血は認められるものの、どこからの出血なのか、なぜ出血したのかは判明できませんでした。4日後、死から生還した兄は私たち5人、母、坂井、高橋、中元寺、そして私がイメージしたとおり、日中の日差しを受けながらW病院の玄関を退院していったのでした。

帰宅した兄は自分の体験を私たちに語り始めました。それは、まぎれもなく臨死体験でした。

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