演劇人の幸福論 1

演劇では「悪人」も「善人」もいない。「不幸な人」と「小さい幸せを見つけるのがうまい人」ならいる。

役に取り組むときその性格、生い立ち、好みなどあらゆる方向から想像します。たとえば「ヒットラー」に扮するなら一切の先入観を排して、その人を身近な友人とします。歴史的殺人鬼であってもそれは結果であり、その生い立ち、つまりプロセスをていねいにリサーチします。演じる俳優に共感がなければ役に扮することはできないし、プロセスを感じてもらえなければ演劇にする意味がない。「悪人」という結果を伝えるなら、歴史書など論文でいい。良い戯曲なら、そこに共感、悲しみ、哀れみ、可笑しみ、滑稽さがふんだんに含まれているはず。私だってそういう条件が整ったら、そうなってしまうかもしれないと、いつでも引き出される「闇」を心の内側に想っていただきたいというのが演劇の立場だ。ヒットラーは、父親からの虐待による不幸な少年時代をすごしたという。ぶたれる回数をぶたれながら自分で数え上げてみせたといいます。恐怖と悲しみ、頬の痛さを「感じないよう」にしてしまったのでしょう。彼の心の風景には誰も人がいなくて、北風が吹いていて、とがった危険なものが足元にたくさん転がっていたでしょう。そこまでではないにしても、わたしたちの殺伐とした心の風景に、実は、自分で井戸を掘ることも、果実のなる木を植え、鳥を呼び、花の種をまき、いいにおいにすることができるのだ、そのために誰かに助けをもとめていい、ということを伝えられたらと、私たちは願って舞台をつくります。

「冷酷な人」は、なにかしら、本人も意識化できていない「感じないよう」になったきっかけがあり、その時から、苦しみも喜びも両方感じなくした状態のキャラクターととらえるのです。そして、作品に触れたあと、あれ?もしかしたら思い違いだったのかな、もっと自由でいいのか!もっとなんでもいろいろ喜んでいいのか、と、見えなかった呪縛から離れてほしいというのが、あらゆる芸術の目的の一つではないでしょうか。

持って生まれた感性を失わず「小さな幸せを見つけるのがうまい人」が幸福な人です。ウルグアイの元大統領ムヒカさんによれば、それを分かち合う人が「豊かな人」なのです。私は先日、豊かな人に会い、一日、幸せな日をおくりました。市役所に行き、用事が済んで帰ろうとして、切手を買うのを忘れていたことに気付き受付の女性に売店をたずねました。ぶっきら棒に教えてくれたので、ぶっきらぼうな気持ちで売店に行くと、男性の店員さんがふんわりしたほほえみで立っていました。切手を買うと切手を濡らす小さなスポンジを出してくれてその表面に触れてから、「ちょっと強めに抑えてください」といいました。言うとおりにして切手を貼りながら、この辺にポストがありますか、と尋ねると、「役所の入り口の金木犀の木の下にあります」といいました。このかたは新見南吉さんの「てぶくろかいに」のなかの手袋屋さんだ、と思いました。雪の中、子ぎつねが扉の間から、母ぎつねが人間の手に変えてくれた方でない手を間違えて出して「手袋ください」といったとき、小さいきつねの手に手袋を渡した、あの手袋屋さんです。投函しに行くと大きな金木犀が金色の花びらを半分落として周りを明るくして、いいにおいをさせていました。自転車を雨にぬれないようにしていました。

私はハッとしました。手袋屋さんは、小さな幸せを分けてくれたんだ。わたしは忙しさにかまけて、心の中に金木犀を映していなかった。小さいころから大好きな木なのに、見ていなかった。昔から金目のものだけを探して見ている大人にだけはなりたくないと、想っていたのに。まったく、演劇をやってるのに!

入口のところにあります、ではなく、「金木犀の木の下にあります」と私は言えるだろうか?どんなに忙しくても、余裕がなくても、誰に対しても変わりなく、あの手袋屋さんに扮して生きていたいと、憧れました。

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