親不孝者と言われた日

22~25歳まで私は博多に住んでいました。就職して最初の赴任地が博多だったのです。
南三陸出身の私にとって、初めて暮らした博多は面白く珍しいことでいっぱいでした。一言でいうと、周囲の人たちの会話を聞いているだけでクスッと笑えるような、明るく大らかな雰囲気が街中に漂っているようでした。。

住み始めて2年程経ってから、『親不孝通り』という天神の西側にある繁華街に、よく足を運ぶようになりました。中州よりずっとリーズナブルに飲めるその一帯は、私にとって居心地のいい場所になりました。
いつも一人でぶらっと。

今思うと、いつもスーツを着ていてそれなりの恰好をしていましたが、少し風変わりな若造に見えていたのかも知れません。ある時、店のマスターから「こんちゃん、何を目当てに来てるの?」と聞かれ、「何もないよ」と笑って答えていた自分を思い出します。マスター以外の人たちも皆、そう思っていたらしいのです。 皆さん、何かを求めて生きているのが当たり前なのでしょうか(笑)。 

そんな日々が続いていたある日、私は体調が急変しそのまま入院してしまいました。1985年3月9日のことでした。
本人だけが知らなかったことですが、私は助からないと言われていたようです。

死というものは、自覚がないまま、何の覚悟もないまま訪れるものなんですね。あの時の私はあっけなく逝きそうな状態でした。
すべて後になって思ったことですが。

両親が病院に来たのは1ヶ月以上経ってからでした。
医師がびっくりするほどの回復力で、そろそろ私は入院生活に飽きてきた頃でした。両親も周囲から私の容態を聞いて、安心した頃合いを見計らって病院に来た感じで、私からすると観光気分と言ったところです。当時、南三陸(旧志津川)から博多までの道のりはとても長かったので、観光気分でもそれはそれでいいんですが、結局病院にどれくらいの時間いただろうか・・・?。
5分くらいだったような気がします(笑)。

その後すぐに、両親は長崎に向かいました。何か用事がある訳でもなく、単なる観光です(笑)。面白いものです。

ただ、滞在時間5分の間に母から言われた一言が忘れられません。
「親より先に死ぬのは、最大の親不孝だよ」

 その後の私の余生にとって大きな影響を及ぼす一言になりました。1000数百km離れたところから来て5分間の滞在時間に喰らったカウンターパンチでした。

3.11で両親は亡くなり、最大の親不孝は免れましたが、「親というのは、すごいものだなあ」と、親になってひしひしと感じてきます。
自分が親になってみて初めて気づくことが多いですが、親になって気づくことを子どもに伝えることで、子どもの生き方の根幹に関わる影響を及ぼすことになると感じています。
例えば、「親というのは、子どものためには自分の命も惜しくない」などと。

 

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旧BRT志津川駅とオクトパス君(本文とはあまり関係はありません)

 

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