踏み絵

”自分を信じて生きる”ことに専念したいと思っている私は、神や仏に特別な想いを抱いたことがありません。
ただ、先祖は大切にしたいと思っています。 

公開中の映画『沈黙 -サイレント-』が話題になっています。 

昨年末に偶々、Eテレ「こころの時代」の『沈黙』を視ながら、10代の頃に読んだ遠藤周作の『沈黙』を想い出していました。
その頃の私は読書嫌いでしたが、誰かの誕生日に私が『沈黙』の文庫本をプレゼントしたことから考えると、私にとってかなり印象的で刺激的な本だったことがわかります。

 「こころの時代」を視ながら、ふと私がその時代に生きていてキリシタンだったとしたら、私は“踏み絵”を踏んだだろうか?と考えていました。

「間違いなく踏んだだろうな」
その時、私はそう思っていました。
これまで
あまり突詰めて考えたこともないことでしたが、『沈黙』を読んだ10代の頃は「絶対に踏まない」と思っていたでしょう。
私自身、「踏むだろうな」と思ったのは初めてのことでした。
 

昨年末、興梠 守氏ほか数名の方との会食の場で、私が“踏み絵”について話すとやはり皆さんも同じような見解でした。

“神はお赦しになる”

 

だとすれば“踏み絵”を踏めないのは、その人の罪悪感、あるいは“神への冒涜”といった人間の教えによるものなのでしょう。 

『神の教え』ではなく、いつのまにか「人間の教え」に変化していることに気づかされます。

 

 

図1

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