翻訳という筋肉

2013年の暮れに、心に決めたことを今思い出しています。それは、出来事を物事を現象を【解釈】するのではなく、【翻訳】するということです。翻訳に関しては今年1月13日付けで投稿した『病気という刺激』でも少し触れました。解釈は、時代や立場によってコロコロと変わる。それは、騒々しい。一方、翻訳は物事を静かに解明していくやり方。その時そう書いています。

解釈と翻訳の違いの実例を挙げましょう。第二次世界大戦前は少なくとも日本では、鬼畜米英といってアメリカやイギリスを鬼とも呼び、畜生つまりケダモノ呼ばわりしていました。これを解釈といいます。そして戦後はというと、誰もそういう表現はしません。では、アメリカ人やイギリス人は1945年から人間になったかというと、そうではありません。初めから人間です。これを翻訳といいます。

もう一例を挙げるとすれば、子育てでしょうか。今から30~40年前に、母乳だけだと脳や身体の発達には栄養不足だといわれた時期があります。母親の添い寝も、乳幼児の情操教育には適さないといわれました。実際、それを実行した親たちが多かったのです。解釈ですね。なぜなら、それ以前もそれ以降も母乳が一番、添い寝が自然だとなっているからです。粉ミルクのメーカーも、いかに母乳に近づけるかを目標に研究しているのですから。これが翻訳というものです。

その翻訳で、見事な一例をここに紹介します。Eテレの『こころの時代』のゲストの佐々木 閑(しずか)さんのことです。駒沢大の教授で仏教学者の彼は「出家的生活のすすめ」ということを話していました。出家とは、家を出て、つまり俗世間をすて、仏道修行に入ることです。それを実行している人、すなわち僧侶のことも出家といいます。

その出家たちは一体どうやって生活をしているか。佐々木さんは、まず最初にそれを解説します。彼らは、人間が生きていく上での誰も避けることのできない苦を見つめて暮らしていきます。お釈迦さまの教えを受け継いで、四つの苦を見つめます。生、老、病、死を観ていきます。それを修行といいます。その場所は寺であったり、寺の外であったりします。

ここから佐々木さんの翻訳が始まります。2500年前のお釈迦さまとその弟子たちも、そうやってインド各地を歩き修行を続けました。彼らの行動は当時の人々にとっても、自分たちの代わりに苦から解放してくれる何かを探していると理解されていました。そこで人々は、僧への感謝のしるしとして食べ物やお金を差し出したのでした。お布施です。僧侶から見れば、托鉢です。さて、現代で見ていくと学者と私たちの関係が「出家的生活」の典型になると佐々木さんはいいます。以下、見事な翻訳が始まります。

学者、たとえばニュートリノの研究者は私たちとは無縁な存在に見えます。それでも彼らの生活費や研究費は国から支給されます。その資金はどこから?私たちの税金。つまり、お布施をあらかじめ出しておいたもの。なぜなら、ニュートリノ等の基礎研究に成果が出れば、やがては私たちの生活の質が良くなるからです。宇宙の構造や特徴や動きが解明されると、長持ちする製品、ムダのない物作りで私たちの出費が安くすむ日が来ます。さらには、生命とは何なのか、それはどこから来たのかが少しでも解れば、医学、哲学の発展につながり、私たちの生き方を楽にしてくれる。

私たちのために造ってくれるであろう、頑丈な道路、決壊しない堤防、その技術や研究に、私たちはお布施をする。メーカーは、より安心で安全で健康にも役立つ製品を購入しやすい価格で販売してくれるのなら、儲けというお布施をしましょう。その利潤でもっと素晴らしい仕事をして下さい。素敵な音楽を創り、演奏して、私たちの心を豊かにしてくれるからお布施をする。画家にも、それを保存する美術館にも、そのことを知らせる報道関係にもお布施をする。ただし、すべてが正しく行われているというのが大前提です。佐々木さんはいいます。社会は出家的生活で成り立っていると。

最近の私の翻訳をいいます。脳は究極の筋肉です。心も筋肉です。どちらも使わないとサビツキで硬くなります。使い始めれば、少しずつ軟らかくなります。
最新の私の翻訳をいいます。その人の人生を翻訳しているなあ!と思わせる好例のひとつがあります。パラリンピックです。

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