利害を超えて

社会や会社では権限をもった立場の人ほど、利害を超えた判断や意思決定をしなければなりません。 そうしなければ、権限をもつ資格がないといえます。

政治や企業の幹部にも、風見鶏や八方美人、あるいはぬかに釘、暖簾に腕押しといわれるような人がたくさんいますが(挙げればきりがない?)、少なくとも重大な意思決定をする立場にある人は、将来のことを考えて英断を下さなければなりません。

その時は、嫌われても嫌がれても、非難を浴びても、それが当然のこととして『単なる覚悟』をもって決断しなければなりません。『単なる覚悟』は先日思いついた言葉ですが、「いつもリラックスしながら命を惜しまない覚悟で生きている」という境地に近いのではないかと思っています。

結局、よく思われたいとか評価されたいという欲求が、それぞれがそれなりにもっている『単なる覚悟』をぐらつかせ、情けない結末を迎えさせてしまうことが多々あるようです。
ただ本来は情けない結末のはずが、羞恥心が薄れてしまっているので自己正当化などしながら、その場を凌いで生き延びていきます。
周囲も似たり寄ったりだと、救われた気分になれますから(笑)。

言うなれば「恥の上塗り」ですが、その人の人生にとっても社会にとっても歪が生じた状態です。重要な意思決定ほど利害を超えて行われなければならないでしょう。姑息な判断は、それこそ命取りになるのでは。
考えてみると、社会的に重要な意味をもつことほど時代を超えて引き継がれいつか成就するものなのでしょう。自分が生きている間に評価されようなどと考えることが、間違いのはじまりです。

そういうことに気がつきにくいのは、メリット・デメリット、損・得など、自分にとっての都合を優先されることばかりが横行している日常に身を置いてしまっているからではないでしょうか。
私は、そういう点に最も注意を払わなければならないと思っています。なぜならば『自分を生きる』ことから逸脱しそうになるから。

 

明治維新の頃の人たちが何となく眩しくみえるのは、彼らが“利害を超えて”生き死んでいったからではないでしょうか。
迷いや損得勘定は思考によるものなので、肝心なことほど腹で決めた方が美しいようです。

 

 

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